2016/05/30

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#20

「アメリカは日本の消費税を許さない/岩本沙弓」より
米国は怖い、米国が悪い、特定勢力のなせる業である等々、こうしたことに偏り過ぎた議論は米国のせいにすれば丸く収まる的な発想に陥る可能性がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「外圧」の部分だけがクローズアップされてしまう。悪いのは全て海外と安易に片付けてしまうことが、問題の本質であったり、問題の所在であったりすることを隠してしまうリスクが多分にあり、実はこちらの方が深刻なのではないかと考える次第である。
∞  ∞  ∞
オバマ大統領の広島でのスピーチ。抒情詩的であり多くの人々が感動した。
違和感を持つ人はいないだろうか。ごめんなさい。僕はただのしがないサラリーマンです。思想信条など人に語れるものなど持っていない。でも、なんだか違和感がある。
広島で米国大統領が感動的なスピーチをやった、そこに価値がある・・そうなのか?
本当にそうなのだろうか。東西冷戦に幕引きしたゴルバチョフ。彼が名演説を残したという記憶は僕にはない。
もう一人政治家の名前を出そう。小沢一郎。
近頃はまったくその名をきくことのない、力を失った「剛腕」小沢一郎。彼は無口で無表情で演説で評価をされたという記憶はない。彼が悪事をしたのかどうかは論じない(個人的にはハメられたと思っています)。ゴルバチョフの最後は確か拉致監禁されたりなんだのかんだので、失脚させられたような流れの終焉だった記憶がある。(まだ終わってしまった人ではないけれど)
確かに政治家には指導者的な意味合いも必要なのだろう。キング牧師のように。もっと簡単に言いたい。例えば、坂本龍馬が日本の未来図を示す名演説をし、その場で暗殺された・・もしもの話だけれど、薩長同盟やらなんやらの龍馬が事実上残した「実務者」としての歴史ともしも話を比較してイメージして欲しい。まぁ、そういうことだ(笑)。しかし、岩本沙弓さんが指摘する「隠れてしまう本質」とはそういうことじゃなのか。情緒に弱い。この国の流行る歌もコード進行はだいたい定型化されている。話を変えよう。
先の記事も、今回の記事も直感的NOの話をしてしまったけれど、どうやらこの国の今の現状は「NO」の物語だけでは多くの歓心を得ることは出来ない、というのが「今」らしい。それについては、次回、渋谷陽一さんの登場にて記事を書こう。

上質な物語を作ることが出来ても、その時代にそぐわなければ、勝ち目はない。そういうことです。

2016/05/29

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#19

 「アメリカは日本の消費税を許さない/岩本沙弓」より
日本経済は長らくの間、日米交渉の誤謬の上に成り立ってきたのではなかろうか。そして、ごく一部の利害を重視する余り、両国民の多くがその実態を把握しないまま、作為的に協議が進められてきたのが日米の貿易、通貨、政治交渉の歴史だったのではないか。過去の公的な文献を調べれば調べるほど、そんな気がしてならないのである。〜〜国の大半を占める、つまり国家の経済基盤を支えている一般国民の生活の安定を図ることは、一部の強者の利害を超えて尊重されるべきなのではないのか。そんな意識が私の執筆の原点にある。

∞  ∞  ∞

岡崎京子さんとの会話は一旦閉じて、経済について。知らないということは負けに通じる。日本の敗戦、アメリカが強い国だと知らなかった。「知らなかった」は営業職という結果が全ての世界では論外な云い訳だ。もちろん、国も人の人生も負けなければならない時がある。しかし、なんだろうな。僕は今、負けるわけにはいかない、そういうことだ。無限大の可能性が広がる二十代とは違う。

あまり知られてはいない岩本沙弓さんという経済評論家。彼女は暴く。暴く暴く。この国の欺瞞やら、支配層やら。これをいうと、狂人だと思われるが、既に頭がおかしなおじさんだと思われているので、書いておこう。この国は既に、かなりの分野にCIAのエージェントがいる。裏付けやら、ソースなど示さない。直感だ。そもそも、反抗や反骨というのは体感としてNOをいうことだ。

2016/05/27

人の輪の中に入ることは出来ますか?このタイトル・・おいおい、大人かよ(笑)

初夏の週末の夜ですが
みなさん、どうお過ごしでしょうか。
じつは、今夜、
心斎橋にあるアイリッシュバーで
開かれるパーティーに
誘われてたんですが
ウソついて行かなかった(笑)
なんだかね・・
僕はどうも人の
話の輪に入れないという・・
僕はお酒は付き合い程度しか
飲まないので
いわゆる「スナック通い」って
したことがなく
キャバクラとか
そういうところも
御客さんの接待とかでしか
行ったことがないんですね
そうそう
時々ブログにも書いてますけど
これでもけっこう
優秀な営業なんですよ、僕は(笑)
「心の暗黒みたいなブログ書く人が?」
とお思いでしょうけどね
仕事する時は
ちゃんとスイッチを
ONにするんですよw
みなさん驚きますよ
だって接待で盛り上がらない時は
素っ裸になって
きゃっきゃっきゃっきゃっ
しちゃえるんですよ。僕は(笑)。
でもね
スイッチがOFF状態ですと・・

ちなみにですが
僕はお酒を飲む居酒屋とか
バーなどのお店を
今までで好きになるとか
通ったなんてことは一度も
経験なかったんですよ
でも単身赴任生活が
淋しいんでしょうね(笑)
じつは最近好きになった
近所のショットバーがありまして
初めはドキドキしながら
お店の扉を開けましたよ
そしたらこちらのお店は
ホントに御客さんが少ないんですよ
僕はひとりで
可愛らしいおばさんのママと
会話しながらワインを飲むんですけどね

なぜだか昨夜は4人ほどの
近所の30代男女の
御客さんとテーブル席で
飲んだんですよ
でもね
やっぱ僕はOFF状態だから
人の輪に入れない(笑)
なんというんですかね
文言でこの状況を
説明しにくいんですけど
平たくいうとですよ
どなたかが話をしてても
僕は全然その話に
身が入らないんですよ(笑)
いや、身が入らないどころか
まったく違うことをずっと
考えてたりとか・・
で、ふっと気付いて相槌を
適当にうったりとか・・
ホントにね
楽しくない
というよりも
大きな苦痛!(笑)


写真は箕面の温泉から
雨に煙る大阪の夜景

そうです
どちらかというと僕は
ひとりぼっちで
雨のなかで
写真撮ったりする
ことのほうが好きですw

でも淋しい・・

なつきのの悪い猫みたいでしょ(笑)




2016/05/26

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#18


『岡崎京子/戦場のガールズ・ライフ』より⑤
「寄書き:『みなさん』の話は禁句/小沢健二」より
1996年生まれで、15才で創設した今やスタッフ80人のメディア企業を率いるメディア王女、タヴィ・ゲヴィンスンは、ティラー・スウィット(アイドル的な人気を持つシンガー・ソングライター)についてこう言っている。「ティラーが高校を卒業したのは何年も前なのに、彼女が今も高校時代のことを歌詞にし続けていることについて、ある記者が質問したの。そしたらティラーはこんな風に返事したの。『じゃあ、何についての歌詞を書けばいいの?マーケティングの会議?』って」
∞  ∞  ∞
ここから、小沢健二さんは「ヘルター・スケルター」を通してスターと「みなさん」(ファン)の関係性について語られる。少しだけ紹介すると、「みなさん」の話をすることは禁句・・・これは売春婦が客のおっさんの話をすることがNGということと同意であり、その禁句を描いた「ヘルター・スケルター」。
岡崎京子さんはフリッパーズ・ギターが大好きで、再結成をとても望んでいられた。きっと、今も。
小沢健二さんも、岡崎京子さんの新作を楽しみにされていらっしゃるんだろうな。
僕は、車で移動中によくフリッパーズ・ギターを聴く。退屈な時にハミングするポップミュージックって、とてもとてもいいですよね。特に、女の子にとっては、いつもいつも、そーいうポップスをハミングするような日常が一番いいのかもしれない。岡崎京子さんも、そーいう風にご自身の作品を読んで欲しいと思われてるのだと思う。「音楽みたいなマンガ」とはそういうことだと思う。では、「ヘルター・スケルター」はどうだろう。スターになりたい、アイドルになりたい、キレイでいて世界中から愛されたい・・。そこは退屈な日常ではなく「ひっちゃかめっちゃか(ヘルター・スケルター)」な日々だ。
知ったかぶりな言い方かもしれないけれど、残酷なモンキービジネスだと思う。アイドルとかなんだとかというのは。だからと言って嫌いではないし、どちらかと言えば好きな世界です。もっと言えば、僕が今、賭けに出てやっていることはアイドルを目指す女の子たちと似たようなものだ。
そうだな、もう、既にやられている女性がいるかもしれませんが、たとえ無名のまま、醜い老いた姿になってもキラキラしたオーラだけは失わないで死ぬまでやり遂げる女の子がもしいたら素敵だと思う。「ヘルター・スケルター」の続編が、片目を失くしたりりこの素敵に老いた姿だったら、どれだけの女の子たちが勇気をもらえることだろう。

2016/05/23

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#17



『岡崎京子/戦場のガールズ・ライフ』より④
「80年代」より
ブレード・ランナー的な廃墟のイメージもあって、みんなで「いつ死んでもいいね」とか「核爆弾が落ちてこの世の終わりが来たらステキだろうな」なんて言っていて、組み合わせのゲームの終わりを恐れずに遊ぼうというような感じで楽しんでいたんですね。
(「STURM」5号 1994年11月)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「家族」より
奇妙な家無き子(家はあっても家は無し)、おかどちがいな孤児(親はいても親は無し)として生きる事。それは今、誰もが余儀無くされている事かも知れません。でも魔法を手に入れるチャンスは充分あります。いくら負けが込んでいても。いつか。そして裸足で歩き出しましょう。サイズの合わない靴でヨタヨタ歩くより、裸足で歩くことを。熱砂の中を、裸足で進んでいった無謀なディートリッヒのように。
(「ハッピィ・ハウス」あとがき 1992年)

∞  ∞  ∞

僕のメモ書きは、まだまだ岡崎京子さんとの会話が続く。

自分の感性で発する言葉とはいったい、なんだろう。
「核爆弾が落ちて・・」なんてことは周囲を気にしていては言えないことだろう。
熱砂の中を裸足で進んでいく・・・それはいったい、なんのことだろう。
僕はただの・・というより出来の悪いフツー以下の会社員だ。妻は3匹の猫と一緒に毎日寝起きすることに幸福を感じるフツーの家庭の女性だ。でも、二人だけしか知らない辛辣な経験と出くわした修羅場がある。それは、二人だけの物語だ。それだけでいいと言えば、それだけの生活でいいのだろう。特別な能力ではないかもしれないけれど、妻は太宰治の人間失格を学生の頃読んで、ゲラゲラ笑ったらしい。この物語はそういう笑いを取るのが作家の意図するところだと思っていたと。
なんだろうな。僕が言いたいことは。。。
∞  ∞  ∞
小説も音楽も映画もすべて、更にいえばtwitterのつぶやく言葉もFBにのせる記事も、作者側が発して手離したその時から、その作品も短い言葉のつぶやきも写真も何もかも、それらは全て、受取る側のものになるということだ。俺の作品とかアタシの作品とか、プロもアマも関係ない。芸術家も一般人も。
『そういう考え方があるかもしれないけれど、人それぞれだ』とかいうことではない。
真実。ルール。
正義はいつも臆病者の手のなかに、ということだと思う。
念の為に意味がわからない子供たちの為に付け加えておこう。
臆病者とは読者・リスナー・フォロワーのことです。

詩:そして僕はすべてを捨てる


2016/05/21

音そのものには意味がないのか?いまだにわからない

岡村靖幸さんの新作『幸福』を友人から教えてもらい最近よく聴いてます。
岡村靖幸さんは50歳になったんですね。
同年代の尾崎豊さんも生きていたら、もう50歳なのかも。
80年代後半から90年前後まで、僕が高校生から22歳ぐらいまでですかね。
一番音楽にのめりこんでいた時期です。岡村靖幸さんについては僕は新曲をチェックしてる程度で大好きな部類ではありませんでした。実は。
僕が音楽の情報源にしていたのは、そうです、渋谷陽一さんのロッキング・オンです。もちろん僕は音楽思想の多くを渋谷陽一さんから影響を受けてまして。ロッキング・オンで取り上げられるか否か、これがチョイスする判断基準。取り上げられないものは産業音楽でありあちら側の忌々しき音楽である、と。岡村靖幸さんは取り上げられていました。なので、とりあえずはチェックしましたが。
そうですね・・なぜ、ハマらなかったかと言いますとそれはですね、当時のトレンディドラマに殺意を抱いていたからです(笑)。トレンディドラマがイメージされるものは、なにからなにまで全て自分の中から排除していました。もちろん、流行曲などは全てNOです。全て。

ちょっと話が逸れるのですが、村上龍さんの小説で『音楽の岸辺』という本があります。今、手元になく僕の記憶と極私的な印象による説明になるので、気になる方はちょっと読んで欲しいのですがそのなかで、
「音そのものに人は感動したりしないんだよ」
というようなセリフがあるんです。
そのセリフは音楽というものを信じていない主人公が発する言葉です。この言葉の意味について僕はかなり考えてきました。何度も何度も。そもそも、感動するとはなんなんだよということも含めて。現時点で僕が着地点としているのは、

人は音楽や歌によって、触発される自分の中に元々備わっている、もしくは持っている情報から「物語」が創出され、その「物語」に感動している、ということではないかと。レコード会社のプロモーション会議なんて、その最たるものでしょ?極端な例ですが。一人のアイドルに物語を持たせるという。ちょっと違う視点で言えば、「この歌を、この歌手を好きであることによる自己演出」というような。その方程式に、自分を当てはめるとこういうことです。
「ロッキング・オンが選ぶ音楽を聴く自分でいたい」と。いやいや、最終的には、実際の音楽を聴いて好きになったり、岡村靖幸さんみたいにハマらなかったりするわけなんですが、しかし、果たして僕は、岡村靖幸さんの「音楽」だけのインプット情報だったらどうなのだろうか。事実、今回の新作は僕は好きになりましたね。まあ、30年前の僕と今の僕では大きく全てが違うのですが。
渋谷陽一さんは大滝詠一さんについて語られたことがあります。
それは、大滝詠一という人は歌の匿名性にこだわった。なぜならば、最大のポップソングというのは「この歌は誰が作った歌なんだろう?」と思われるくらい浸透する歌なんだと。例えば童謡とかですよ。誰の歌なのか、誰がそもそも最初に歌っていたのかなんて誰も知らないけれども、みんなが知っているという。
自分の感性だけで聴く音楽をチョイスする。そういう時代が到来しました。過去も現在も音楽情報は全てがフラットです。特に日本のシステムを憎悪する若者たちは増えていて、「あちら側のマーケティングの仕掛けには乗らない」というスタンスが潜在的にある。あとは、もしかしたら、作り手側にボールは投げれているのかもしれません。音だけで物語を創出するという勝負感。
昔々のクラシックの時代と同じ方法だ。よく考えると。。

2016/05/20

大好きな岡崎京子様

1996年5月19日。あれから20年です。
あなたのファンのひとりが、こんなへんてこりんなブログを宇宙の片隅でやってます。ぜんぜん、素敵でもおしゃれでもなく、気に入ってもらえないと思うのですが頑張ってやり続けようと思ってます。これをみつけてくれる女の子がもしも、岡崎京子さんの作品を読んでみようとおもってくれたら、それって素敵なことのような気がするんです。
ずっと、待ってます。新作をずっと待ってます。

追伸:僕にはなんにもないのですが、小説を書くことをはじめてみました。

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#16

『岡崎京子/戦場のガールズ・ライフ』より③

「寄書き/加藤賢崇」より
プライベートでの彼女は、誰からも愛される、おきゃんでキュートな下町の太陽、といったイメージで、時に漫画の中で描かれた女性の内面の孤独や怖さなどを、感じることはなかった。あれは、想像力なのか、ぼくには見えない京子さん自身を反映させたものだったのか、今もわかりません。割にコミカルな場面で描かれてるキャラが素顔の彼女に近いと思うんですが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「寄書き/岸野雄一」より
私は岡崎と会って話して、物怖じしないですべてを相手に伝えてしまう態度や、こちらが話した事を瞬時に完璧に咀嚼して、疑問があったなら容赦なく突っ込んでくる頭の回転の早さにビックリしたものだ。その印象は、岡崎が描くスリッツやPILのジャケの女の子なんかと見事に重なっていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「80年代」より
そんな渋谷の街並を歩くプリンス&プリンセス達を横目で見、ふと見上げたピーカンの青空。それが私にとってのタイクツというものです。
退屈は風景に似ています。もちろん青空にも。
(『退屈が好き』あとがきより 1987年)

その頃よく聞いていたのがヤング・マーブル・ジャイアンツというイギリスのモックスハム兄弟とアリソン・スタットン嬢という何となく奇妙な三角関係を思わせる3人のユニットのレコードで、このヘンテコな3人組のつくりだす、そのあまりのつたないちせつさと、そのあまりにゆうがな何もなさにずいぶん勇気づけられたものです。ぴろぴろのオルガンにベースライン、安っぽいリズム・ボックス・リズムに申し訳程度のギターの音、その上のへたくそでつぶやくようなささやくようなスタットン嬢のうた。世の中には色んな方法があって、こういうやり方でも大丈夫、O・K。ノージャンル、または千の方法。その頃の音楽はそういうことを教えてくれました。感謝しています。
すべてが新鮮ですべて退屈。あたり前のことと、あたり前でないこと。どうでも良いことと、どうでも良くないこと。それがごちゃまぜの日常。あいまいでファジィな毎日、毎日、毎日。
失うものも何もなく、無知モウマイの身の囲い50cm半径で完結して充足している世界。
でも゛何か"がやってくるのを待機している。諦めながら。きっと゛何か"が、と。
でも゛何か"って、何?
(『バージン』あとがきより 1989年)

∞ ∞ ∞ 

オールナイトニッポンという深夜のラジオ放送を小学・中学の頃よく聴いた。月曜日の中島みゆきさんの放送を一番楽しみにしてた。中島みゆきさんの歌が描く世界とDJの中島みゆきさんの落差が子供ながらにも気になって。一度、尾崎豊さんがゲスト出演した回があって。その二人の会話の中で一瞬、中島みゆきさんの暗い影がみえたときがあって。それは、どういう内容の会話をしていたとか、そういうのは覚えてないんだ。でも、間違い無く、頭のなかに中島みゆきさんが暗い表情してるのが浮かんで。僕は子供だったけれでも、ずっと覚えてる記憶。

宇宙の遠い遠い昔から深いところで繋がってるような人。そういう人に出会う。そういう人とだと、会話とかしなくても、黙っていても、同じ空間にいるだけで気持ちがよく・・でも、そういう気持ちよさとか楽しさを表現するには暗くて深い闇を描かなくてはならない、ということですよね?



2016/05/18

疲れてるときにデビルな女優に惹かれる件

ゴールデンウィーク明けから
祝日のない6月へと移り行く季節ですが
みなさん、どうお過ごしでしょうか

今日は少々疲れが出てまして
昨日まで埼玉に
明日が京都の舞鶴
明後日が和歌山の白浜
出張が続くと疲れますね
そんなタイトな平日なのに
次の土曜日は自転車仲間と
ロングライドに出掛ける
予定をしているという・・

ところで
最近とても気になる女優さんが
いるんですけどね

エヴァ・グリーン


2016/05/17

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#15

『岡崎京子/戦場のガールズ・ライフ』より②

「ノート(ある日の)」より
いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。ひとりぼっちの。一人の女の子の落ちかたというものを。
一人の女の子の落ちかた。
一人の女の子の駄目になりかた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
名前と年齢が決まってしまえば、あとはもう終わったも同然。では決してないんだ。ここから長い長い外科手術が始まる。長い長い探査が始まる。割の合わない私立探偵になる。その女の子、たった一人の、一人ぼっちの女の子の許せるもの/許せないものをリストアップしてゆく。どうでもよいこと/どうでもよくないことをリストアップしてゆく。彼女にとって痛いもの/痛くないものをマップしてゆく。地図をつくる。年表をつくる。彼女の歴史/時間をさかのぼる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何故かアルバート・アインシュタインという人の本を選び、そのルビ付きの本に「五、〇〇〇光年の遠くの蟹星雲から秒速三七、二〇〇マイルの速さで光はやってきます」と書いてあるのを読んでどんどん自分がうしろにじりじりと飛んでいきそうな気が、こうしているうちに自分がとり残されているような、時間においてきぼりにされているような気がして、実際木の椅子からころがり落ちてしまったということだとかを。
彼女の借りていった本ののとなりには死んでから一ヶ月たってやっと発見された作家の本が並んでいたこととか。実際彼女の借りた本はモンゴメリの『赤毛のアン』だとしても。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女はとても下手糞な字でグリーンのインキでノートにこう書くのだ。下手な絵入りでね。
「良い人間になりたい」、と。
しかし本当に良い人間はそんなことは望まないのだ。
(『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』より)

∞ ∞ ∞
僕は自分のFacebookの追悼アカウントは娘を指名設定してある。死んだ後に僕がアップした記事や交友関係やその友人たちとのメッセージのやり取りを娘が知ったとしても、彼女がショックを受けることはないと思う。でも、このブログは・・・。
娘はとても健全な生き方をしていると思う。一般的な意味で。
彼女が中学生のときにギターを教えてみたけれど、一度も手にすることなく押入れに眠ったままだ。もしも、このブログを発見したら、娘は押入れからギターを取り出してきて弾いてみたりするだろうか。そういう想像が一人の女の子の落ちかたと重なる。個人的には。


2016/05/16

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#14

『岡崎京子/戦場のガールズ・ライフ』より①

この恋は世界の歴史とか地球のキキイッパツをすくうようなキボとパワーがあんのよ!!

シアワセなんて当然じゃない?お母さんが良く言ってたわ
シアワセじゃなきゃ 死んだ方がましだって

すべて諦めてしまうかわりに
すべてにくんでしまうかわりに
なんだかわからなくなるまで
うっとりさせてよ
そしてあたしをみにくくしろ

あーお金ほし!仕事したくなーい のんびりしたーい

愛とか好きとかいらないっす オモチャにしていいよ 犬になってあげるっす

あたしはね ゛ザマアミロ゛って思った
世の中みんなキレイぶって
ステキぶって楽しぶってるけど
ざけんじゃねえよって

「寄せ書き:京子さん大好き/よしもとばなな」より
京子さんはいつも楽しいことを見つめている。心が折れるどころか裂けてしまうようなことがあっても、どんな状況でも、クールで美しくいることはできる、げらげら笑うこともできる、それは勝利なのだということを描いている。
そうか、それでいいんだ、と私たちはみんな思ったし、励まされた。女性が生きるのが困難な昨今、その力はまだまだ私たちを支え続ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Young,Alive,in Love

僕は「あしたのジョー」という漫画が好きだ。僕らの年代の男の子は大半がそうだと思う。憧れた。ジョーのように恋だとか愛だとかじゃない孤高の生き方をしたいと思っていた。カウント9で立ち上がる矢吹丈。でも現実はカウントアウトで負ける僕たち。
岡崎京子さんが描く主人公たちは、カウント9でファイティングポーズを取る。意外と簡単に。そういうたくましい女の子に会いたいと僕はいつも思う。


2016/05/15

ピクニックで足をみせればよかったかな

大阪は晴れた五月日和な
休日ですが
みなさんは
どうお過ごしでしょうか
久しぶりに日常のことを
記事にします。
今日は大阪城公園で
ピクニックに参加してきました。
アメリカ人のマイケルが主催する
この会はフランス人やらドイツ人やら
フラッと現れたアジア人やらと
人種のルツボです。
そういえば、ブログには
書いてなかったですね。
私は、カウチサーフィンという
海外旅行者向けのSNSに
登録してまして、それで多くの
海外の方々と友人に
なってるんですが、
まあ、外国人と友人に
なるというのは大変ですよ(笑)
どう大変かというと、
お察しの通り英会話ですよ。
私は時々海外出張があるので
海外で1人でホテル泊まったり、
街で買い物したり食事したり、
適当なアジアンイングリッシュで
会話が出来る程度なんですけどね、
やっぱ、一緒に呑んで
会話するとなるとね、
話の内容はなんとなく
わかるんですが、
それに対して自分が返す
言葉が停止しちゃいまして(笑)
その停止をみて冷たくなるヤツが
いたりするんです。ドイツ人とか(笑)。
今日もね、会うのが2回目の
こないだ冷たかった
ドイツ人エグゼクティブが
来てたんですが、最初は会話は
一切しませんでしたが、
ジェスチャーゲームを
みんなでやってる時に、
そのドイツ人の彼が
私に微笑んでくれたんですよ。
いやはや嬉しかったなぁ。
あれは間違いなく
見下した笑い方じゃあ
なかったんだよなぁ。
やっぱりね、
コミュニケーションが取れない
相手とは一緒に何かを楽しむ
というのは一番いいかも
しれませんね。

写真は、
昨日1人で京都へ
走りましてね、
オシャレな大黒バーガーという
ハンバーガー屋さんで
休憩した時の写真です。
私ね、
足がキレイだって
時々褒められるんですよ(笑)。

                 

2016/05/14

海辺のスピカ


写真家のみなさんは
もうこのブログを
見捨てられたと思いますが・・・

久しぶりに写真です・・
昨年、この場所で撮影しましたが
(海辺のかじつ)
昨日また行ってきました
関西に行ったら
必ず行きたいと
決めていた
大好きな場所

どうですか・・
わたしの寂しい気持ちが伝わります?


Photographed by: Kajitsu
When: 05/2016
Where:Wakayama, Japan 
Subject: "SPICA No1"
X-A1  XF55-200mmF3.5-4.5R  F4.5 1/200sec  ISO320 148mm
Brightness 4.95
mode:M



Photographed by: Kajitsu
When: 05/2016
Where:Wakayama, Japan 
Subject: "SPICA No2"
X-A1  XF55-200mmF3.5-4.5R  F3.9 1/1000sec  ISO320 86mm
Brightness 6.62
mode:M



Photographed by: Kajitsu
When: 05/2016
Where:Wakayama, Japan 
Subject: "SPICA No3"
X-A1  XF55-200mmF3.5-4.5R  F3.9 1/1200sec  ISO320 86mm
Brightness 6.99
mode:M


Photographed by: Kajitsu
When: 05/2016
Where:Wakayama, Japan 
Subject: "SPICA No4"
X-A1  XF55-200mmF3.5-4.5R  F4.0 1/2500sec  ISO320 55mm
Brightness 7.54
mode:M


2016/05/13

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#13物語の断片①


どれぐらいのところまできているのか、
立ち位置を知りたくて少し書いてみたけれど、まだまだのようだ。


夜、夢をみた。起きたら泣いた。それはよくあることだけれど
未来も不確定だけれど過去も不確定だ。
なにもかも。

「マルチプルアウト」
この物語はこれを読んでいる君の物語だ。読まれる数だけストーリーは展開する。
僕もわかっていない過去と未来のおはなし。

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#12

辺境ラジオから⑤

消費活動の根本にあるモチベーションが80年代にまったく変わった。
戦後の消費を駆動してきたのは衣食住の基本に関わる身体的な欲求を満たすことだった。
「こういう食べ物は美味しい」「これを着ると着心地がいい」「この家はすごく住み心地がいい」
80年代からいわゆる「アイデンティティ基礎づけ商品」が登場してくる。「自分が何ものであるか」を商品購入行動によって表示しようとする人たちが出てきた。自分らしさを基礎づけ。「これを買うとあなたらしくなれる」という言葉遣いで欲望を煽った。でも、いくら「自分らしい」消費活動をしてみても、同じ商品を持っている人間がいくらでもいる。アイデンティティの確定は達成されない。自己幻想を充たすために商品購入する限り、市場は無限に拡大する。

・・・・・・・・・・・

迷走王ボーダーという漫画がある。「あちら側の人間」というキーワードが頻繁に出てくる漫画だ。あちら側とはシステムのこと。村上春樹さんがイスラエルで演説中に語ったシステムと同義と認識している。

半径10メートルの世界で生きる若者達。僕は嫌いじゃないし共感する。しかし、「なんか嫌な感じ」には敏感に反応しNOを突きつけてきたつもりだ。僕は極度の人見知りと自意識過剰が昔からあって、社会に馴染めなかったけれど、なんとか生き延びてきた。事実上14回も転職してる。へんてこりんな生きかたのついでに、博打に出ようと思ってる。ひとつだけルールを守りたい。
あちら側の物語にはしないということ。


「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、僕は常に卵側に立つ」村上春樹

2016/05/12

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#11

辺境ラジオから④

よくメディアでは「勝ち組の人生を送るには」ということが紹介される。その答えは簡単。「負け組をつくること」
相対的な勝ち負けに固執する人間が合理的に発想すれば必ず周りの人間のやる気を殺ぐ方向に力を注ぐ。

したっていいじゃない。高校生だって。「アメリカの大統領選挙の展開について君はどう予測する?」「ギリシャ国債はこれからどうなると思う?」って。
(電車の中での高校生の会話を聞いてると)知的好奇心を起こさないよう意識を分散させるのに必死。話がグルグル回るだけ。同じセンテンスを何度も繰り返す。話を深めない。展開しない。参加者全員が一致協力している。知性の活性化を潰しあっている。
知性を活性化するのは簡単。相手が何かを言い出した時に話を遮らないで「もっと話して」「もっと詳しく」「どうしてそうなの?」と展開を促す。


「ナショナルストーリープロジェクト」
一番最近のトラウマ的経験は、ベトナム戦争でも第二次大戦でもない。→子供時代に大恐慌を経験して、その時に自分が何を経験して何を感じたのかということを書けるまでに70年かかっている。
傷の深い経験は受け止めるのに時間がかかる。ぜんぶ説明できるようになるためにはたぶん50年くらいかかる。


マイケルサンデル教授について。
あ、この人インチキと思った。究極の選択の質問なんて考えるだけ無駄。究極の選択を迫られる局面なんて膨大な量の失敗の蓄積の結果だから。そういう事態に立ち至らないために、今ここで何をするかというのが武道的な発想。
聴衆を熱狂に巻き込む喋りというのはアメリカの伝統芸。18世紀に「大覚醒運動」というのが起きてから「白熱的な喋りによる伝道」というのが国民文化として根付いている。スター説教師。1分間に何百語というすさまじいスピードで説教して聴衆は熱狂の渦に巻き込まれる。ロックコンサートとそんなに変わらない。


ディベートなんかもそう。あれが大っ嫌い。
「どんなことでも理屈はこねられるんだから、理屈はこねるな」という結論にたどり着くべき。
悪い意味でのポピュリズムのための技術。風向きによってすぐに賛成を反対に変える。あるいは反対を賛成に変える。でも、そこに説得力がなければ、あたかもその人がその意見を考えたかのように騙される。理屈を越えた矛盾した信念みたいなものが何もない世界。
一種のトレーニングだと思って見れば面白くないか?
そのトレーニングだけで教育が終わってしまう。そういう訓練を受けると、その上で自分がどういう社会をつくりたいかではなく、選挙でいえば「これで選挙に勝てるな」みたいになってしまう。
正しい/正しくないというより、論破できるかどうかとか、違うところに軸がある。


「是非を問う」と言ったところで、是非を問うて毎日生きているかという話。普段だらしなく生きている。それが普通。マイクを向けられたら「是非を問います」とか言って。自分の足元を見て、そこからものを言おう。

2016/05/11

あああ~遠藤さんっ♥

やばい・・ 
最近の気分を表すと 
SOFT BALLETだわww♥ 
第二期ソフバ追っかけww

 

闇の棲み処ツバキハウスに行きたかったな

僕は高校生の頃は福岡にいたので
行くことができなかった
ツバキハウス・・伝説の場所
SOFT BALLETのメンバーとか
小山田圭吾さんとか
もちろん岡崎京子さんもいた場所

行きたかったなぁ
でもテクノミュージックを教えてくれたのは
SOFT BALLETだった。
感謝してます。
僕のひとつ上だから
もう48歳か。
あの頃の女子たちは今でも
彷徨ってるかな・・
あああ~After Images!
なんだかあの頃から
僕はよく泣いてたな(笑)





辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#10

辺境ラジオから③
(twitterについて)
日記だと誤解する。
だって朝は頭が痛くて昼には腹が痛くなってそれで昼過ぎにはましになったけど今度は歯が痛くなって・・そんなことを全部日記には書けない。だから「今日は歯の痛い日だった」と書く。ところがTwitterは今は歯が痛い、舌が痛い、その次は小指がむず痒い、とつぶやける。本来、身体というのはコロコロ変わるもの。身体性に近い状態で公開するメディア。

(若いエリート議員について)
言っていることはすっきりしていて頭もいいし、すごく弁も立つしルックスも可愛い。だけど、奥行きがない。
「懐に刃を呑んでいる」とか「底が知れぬ」とか「衣の隙間から鎧が見える」というかんじがしない。
あ、この人には敵わないと空気で感じさせる人ではない。


バブルの頃に「無駄遣い」という言葉はなかった。
80年代に「無駄遣い」は死語。
根本にあったのは「消費活動を通じて自己実現する」という商品イデオロギー。
「自分らしさを演出する」バブルの頃によく言われた。
自分らしいテイストで服を選ぶ、自分らしくあるためには、こういう車に乗って、こういう家に住んで、こういうレストランで、こういうメニューのものを食べて、こういうワインを飲む、みたいな。
自分らしさの表現というのは、どういう商品を選択するかで決まるというのが90年代から後のイデオロギー。

人間の個性は商品選択でしか表現されない、というのは、明らかにある時代に取り憑いた妄想。
ほとんど狂気と紙一重。
1950年代までは、自分らしさというのは、自分の生き方、自分の労働、自分が作り出したものを通じて示すべきものであって、金で買った商品に託せるようなチープなものじゃなかった。金で買えるもので自分の個性や唯一無二性が表象出来るなんて考えていた人間はいなかった。

身の程知らずの消費活動するやつらって、自分の未来を担保に入れてお金借りて、それで自分の収入じゃ買えるはずのないものを買っていた。そういう異常な消費活動を「元気」と呼ぶのはおかしい。あれは元気じゃなくて端的に狂気。


不謹慎だとか言い出す奴がいるでしょう。「被災地に住む人たちの気持ちを考えたら、そんなこと言えないだろう」とか、そういうことを言って、人の発言を遮る人間が僕は大嫌いなんです。
人の発言にケチをつけて回っている奴って、結局は被災者の人たちの苦しみを「ダシ」に使って、それを利用して他人を怒鳴りつけたり、黙らせたりすることにある種の快感や全能感を得ているんだと思う。こういうことがある度に、「弱者の立場を代弁して」と言って検閲的にふるまう人間が現れるけれど、僕はそういう奴がこの世で一番嫌いです。

2016/05/10

テレビっ子は意外とマイノリティに育つ

不健康なブログを
毎日更新しておりますが
みなさん
どうお過ごしでしょうか。。
今回は気分をかえて
テレビっ子だった私の
好きなドラマ歴代ベスト10を。。
これも一言のみの所感でっ

第10位
柴田恭兵の魅力はあぶない刑事じゃないんだぉ。

第9位
尾野眞千子が演じたB型女子が理想!

8位
ケイゾクもいいけどね!

7位
B型同士の恋愛こそ最強!

6位
キョンキョンが好き!

5位
満島ひかりの挙動不審な演技がたまらない!

第4位
満島ひかりが好き!

第3位
男女の友人関係というのは成立する!という話。
(仲間由紀恵は好きではないけど、これはいい!)

第2位
失敗だらけだよ、俺は・・と思ってる男子諸氏必見!原田美枝子の美しさも必見!

第1位
『フレンズ』
これも男女の友人関係は成立する!という話。(エレカシの宮本さんが出演!)
※このドラマはDVDはありません・・残念!





辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#9

辺境ラジオから②

感情は外部から入る
可愛い 可愛いと子供を可愛いがってる型を真似して仮想的身体運用をしていると後からそういう感情が湧いてくる

逆にいうとあらゆる可能性を僕たちは持っている
悪人になる可能性もあれば
ものすごい聖人になる可能性もある
型を繰り返し演じることによって
降りてくるというか内側から芽生えてくる。それこそ「取りよう」。
武道にも「型」がある。お能にも型がある。型とはつまり体感の送受信。
自分と自分でないものの間での体感の一致がどうしても必要になる。世界の中の自分のありようを調整していく。
それがないと擬態というものは出来ない。
ミラーニューロン。
他者が行っている身体運用を仮想的に自分の脳内で再現できる。
この研究がさらに進むと他者が感じていること、考えていることを身体運用を通じて追体験できるようになる。
人類の歴史の一番の核になる部分は驚くなかれ「見えないもの」を追求している。神とか美とか。
何十万年も見えないものを追求してきて、偶然この100年くらいの間だけ「見えるものに限りましょう」というルールに括られてきただけ。

2016/05/09

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#8


場所
any area set aside for a particular purpose

特別に用意された場所

福生 横須賀 そして沖縄
ナイアガラ スライダーズ 漫画SEX
ヒッピーたちの聖地

アメリカの水兵たち
混血 そして色盲
すべてが白と黒の世界

沖縄の神々とシャーマン
繋ぐ役目、バランサーという意味では男はシャーマンにはなれない。
なぜならば出来損ないだから。女は完成品。男は出来損ない。
全ては感情のおもむくままで成立するはずだった。
男が崩した。今もまだ続く出来損ないの世界。

男2人と女1人。この組み合わせの物語。
コインロッカーベイビーズ
愛と幻想のファシズム
そして上條淳士のSEX
女の役割は全てを知り尽くしながらも、あえて未来を告げない全能者。
男の役割は、なんだろうな。

男には物語が描ける。青写真。
女はそれをみるだけだ。微笑みながら。
YesとNOを繰り返すだけでいい。
全てを知る者。
その女に出会える場所。
特別に用意された場所。

詩『言葉なんていらない世界があると彼女が教えてくれたんだ』


僕が作る物語「マルチプルアウト」には
性描写は必要だと思う。
村上龍、村上春樹、岡崎京子・・
ある意味では性描写にこそ
オリジナリティが最も表現されている
言葉が無用なセックスを
言語で表現する
村上龍さんが言ってた
1969年に春樹さんは
もうセックスを知っていた
それは俺との違いとして
大きな違いなんだと
そんな話を

岡崎京子さんが描く
セックスは
なぜだか
手塚治虫さんが表現する
エロさがある
荒木経惟さんの写真と同じ
きっとやるときは
シャイなんだ。

2016/05/08

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#7

辺境ラジオから①

科学者は必ず観察対象に自分を投影する
顕微鏡の向こう側に自分自身の自画像を見ている
研究している当の本人の生き方とか人格とかを正当化する根拠を見出そうとする
「空目」
人間は自分が見たいものを見てしまう性質がある

ワトソンとクリックが発見した遺伝子における二重螺旋の構造について
DNAが二つあるのはなぜか
お互いの欠点を補強し合う。誤りがおきない。ベストパフォーマンス。→それはつまりワトソンとクリック自分たちのこと。

ネイティヴアメリカンの話
我々は白人が来るまでは決して穴を掘らなかった
ガイア。つまり地母神。
ヨーロッパ人は自然が嫌い。
森というのは恐ろしい場所。グリム童話は怖い。
日本は森林率70パーセント
イギリスは11パーセント、フランスは30パーセントぐらい。その思想は自然自体が邪悪。原罪。
我々は子供は純粋で無垢という。キリスト教だと子供は野蛮。動物に近い。力づくで教育善導。フーコーを読むと18世紀ぐらいまでのヨーロッパの育児は処罰。
宗教改革で教会が親から教育権を奪った。親たちが子供をすぐ殺しちゃうから。ちょっと数が多いと面倒くさいから寝床で窒息させてた。
神の下では人間は平等。勝手に子供を殺す権利はない。
教会が学校をつくる。初等教育のはじまり。
動物レベルから人間レベルへの引き上げをしなければならないと。
子供が無垢とか愛と慈しみによって才能を開花させてなんていうルソーやペスタロッチの教育思想は近代のもの。
因習に対する理論武装。

家族を維持するためには演じる力が必要。
自然に愛情が湧いてくるとか親なんだから情は通い合うとかは絶対ない。そうではなくてある「型」にはまる。
もしくは「型」を演じることで、初めて内発的なものが生まれる。


なるほど。。。
マテリアル、方法は労力でカバーする。
あとは待つしかない。
坂道を全力で駆け上がり、死ぬ直前を擬似体感する。
チキンレース。極限まで身体を絞る。
ぎりぎりまで行く。
肉体を精神が超える音。ロックンロール。

マジック。イリュージョン。魔法。
ヤクルトのデーゲーム。神宮球場で舞い降りてきたもの。
村上春樹さんのはじまり。ヒットが打たれた瞬間。

そうだ。写真も上げよう。
Brooklyn Parlor 心斎橋。隠れ家的でもありながら開放感がある素敵な場所で。

心に刻まれたのか検証する~GW恒例観た映画一言感想~

ちょっとここ最近は
重たい内容を書いてましたので
今回は気分転換に軽快なもので♪

昨年もやりました
昨年は蒼井優さんの虜になっていたんだなぁ・・


今年は5本しか
観てないんですけどね
ではでは
意味深そうで
なーんも考えてない一言感想。

まあ・・スター・ウォーズですよww
J・Jエイブラハムス作品の一押しは
ズバリ!フリンジですっ。時空超えw

まあ・・ダブルオーセブンですよww
久しぶりに観なくてもよかったかな~って
思った映画です。。失礼しましたw

んん・・まあ、今、観なくてよかったかなw
絵描きをしたくなる映画ですよっ

この映画は劇場に観に行ってまして
一度その感想も書いたんですが
今観るとどう感じるかな、なんて
思って観たんですが
あああ~っこれも、
今、観てはいけない映画だったww

もうね、今年のMVP映画はこれw
渋谷の住民だった時代を思い出したw
電グルの前身だった「人生」・・懐かしいw
この時代のことは後日ちゃんと記事にしよう♪

電グルのドキュメントは
サブカル&音楽系若者は必見!
ケラさん出てるよw




2016/05/07

再び閉塞の場所へ


小学校5年生の夏、町に初めて出来た大型書店紀伊国屋。
いつものようにわくわくしながら立ち読みをする。
二十代と思われる知らない男性に声を掛けられた。
「君はこういう本が好きなの?」
「ちょっとついてきて」
非常階段の踊り場へついて行った。
その後の空白。
何度かこのブログでも触れているのでこれ以上は書かない。
なんでも話せた姉にも一度も話さなかった出来事。
それは、自分の今の家族にも。誰にも話さなかったこと。
夢や幻想だったんじゃないかと自問自答を無限に繰り返した。
誰も信じてはくれないだろうと諦めた。
隠していたというより、話す気になれなかったという感が強い。
その後の父の事業の破綻。家族の死。
小学校6年の夏休み明けの転校。
そして閉塞感が僕を覆う。

中学校2年生。暖かい季節のある日の夕方、
お風呂上りでまだ髪が濡れたままだったと記憶している。
当時毎週読んでいたプロレス雑誌を立ち読みするため本屋さんへ。
何気なく単行本の本棚を眺めながら店内を歩いた。その時にみつけたんだ。

『1973年のピンボール/村上春樹』

なんだか読んでいると息苦しくなった。
でも、なぜだろうか。この本を手放したくなかった。
寂しい気持ちの友達が欲しかったんだと思う。
当時の僕と同じような。
・・・・・・・・・・・・・

コリデール。羊の品種のひとつだという名前のシンガー。
息苦しさと寂しさの歌。

再び僕は同じ場所へ辿りついた。そんな感じだ。

世界は変化した。音楽を聴くかたちも。
有名無名など意味は無い。リスナーがチョイスする。自分の感性で。
僕はビョークとコリデールを並列で聴いている。

・・・・・・・・・・・・・・

何度も読んできたのに『羊をめぐる冒険』のプロローグが
思い出せず、久しぶりに読んだ。

「二十五まで生きるの」と彼女は言った。「そして死ぬの」

もしかしたら、今、僕が抱いている47歳の不安は
20歳の時に抱いていた不安と何も変わらないのかもしれない。
今年の1月、36年ぶりにあの非常階段の場所へ行った。
何も起きなかったし、空白の記憶は何も戻らなかった。

・・・・・・・・・・・・・・

僕の戦いについて。
お題目・テーマはほとんど決まっている。
どうせ戦うなら大きく出よう。3本勝負だ。
マテリアルと更なる体力づくり。
絶え間なく。






2016/05/06

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#6

町山智浩さん
think movie storyから。その④※町山智浩さんはブログなどでの引用はOKと公言されてます。念の為。

ロバートマッキー脚本評論家が主人公の映画。アダプテーションという映画について。
脚本家が主人公の映画。
ストーリー製作についての結末。

チャーリーカウフマン。マルコビッチの穴の脚本家。
計算つくされた脚本。
アダプテーション→脚色の意味。
バレリートーマスというエージェントからの依頼から始まる。ニコラスゲイジが主演。
蘭泥棒。ノンフィクションの予定だった。
ストーリーが作れない。悩む。
蘭というのはタフではなく育てにくい。そういったエピソードがあるだけ。
映画のストーリーというのは始まりがあって終わりがなければならい。何度か言ってるがそうじゃない映画もある。

蘭泥棒にはストーリーがない。実話。
脚本が書けない。話がない。
作れない。
人と話が出来る双子の弟がいる。
アクティブな弟ドナルド。
弟が俺も脚本書けると言い出す。
兄チャーリーが出来るわけないじゃないかという。
成長する話じゃないとダメだろと。

ドナルドは刑事と犯人は同一人物だという奇想天外なストーリーを考え進める。
タイプライターの前で何も書けずオナニーをするチャーリー。考えてること、やってることをそのまま垂れ流す、これを意識の流れ、という。文学のひとつ。
エージェントとセックスを想像する内容の脚本。
そのままエージェントに提出する。
エージェントは怒る。
チャーリーは逃避している。

一方ドナルド。ストーリーという本を読んだか?とチャーリーにいう。ハリウッド映画の典型。ロバートマッキーという人の本。チャーリーは嫌い否定する。

ドッペルゲンガー→江戸川乱歩。二重の自分自身。
ドナルドとチャーリーはそれ。
チャーリーがなれないドナルドという人格。

原作者に取材に行くチャーリー。
ロバートの講座にも参加。
チャーリーはロバートに質問する。
ストーリーは行動しないとダメだと言ってますが
エピファニーなんてないんです。戦いなんて何もないんです。ロバートの答え→君はバカなのか?戦いなんて世界中にあるだろう。もしないというなら、君は人生を生きてないんだ。現実を生きていないんだ。

ロバートに相談する。蘭泥棒の原作をみせ、映画にするにはどうすればいいのですか?
結末が大事だと答えるロバート。3幕目が大事と。
そうすれば映画になる。やっちゃいけないのは
デルゼウスマッキーナ方式だと。水戸黄門のような最後。
この会話か3幕目の始まりになる。残り40分。
ドナルドを呼び付ける。ドナルドが原作者に会いに行く。
原作者はウソつきだと、チャーリーに報告。

この先の映画の内容はハリウッド映画の要素が全部出てくるので映画を観てくれと。(ネタバレになる為)

全員、実在する人物。
だから映画に出来ないと。エージェントは困る。
スパイクジョーンズだけが乗り気になる。
原作者は映画内容をみてビックリする。
チャーリーも最低の人間になってるでしょ?だからあなたも我慢しなさいよと説得する。
原作者を説得する決めゼリフは、あなたを演じるのはメリルストリープだと。そして映画になる。それがそのまま映画になっているアダプテーションという映画。

スパイクジョーンズはハリウッド映画を嫌っている。
ハリウッド映画の定型に対する皮肉か。
やっちゃいけないというデルゼウスマッキーナ方式をロバートの登場によってやっている。
ハリウッド映画定型を茶化しているのか、わからない。
殺人犯と警察官と被害者が同一人物だったというドナルドの案。これは、1人の人間の頭の中での話というオチ。
全てのテキストにサブテキストを入れる。
赤頭巾ちゃんのテキストと貞操を襲うというサブテキスト。そういう意味。
この映画は難しい。アダプテーションという脚色という名のノンフィクション。定型と不定型のせめぎ合い。

以上。

大好きな町山智浩さん。
たくさんの勇気を貰ってます。ありがとうございます。


辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#5

町山智浩さん
think movie storyから。その③※町山智浩さんはブログなどでの引用はOKと公言されてます。念の為。

ジョセフキャンベルの話。
物語は分離から始まる。
スターウォーズ→農民やってるルークが旅たつ。分離。
百鬼丸も旅立つ。セパレーション。
どらえもん劇場版は全て旅立ち。安全な場所から危険な場所へ。
冒険に出なさいというしょうれいがある。地獄への招待状。主人公は最初にこれを嫌がる。使命を与えるのはじいさんが多い。師匠さんとか。
宮本武蔵も同じ。
師匠。メンタがだいたい登場する。
孫悟空の三蔵法師とか。
マトリックスのモーフィス。

主人公は境界線を突破して旅に出る。→枷と同じ。
どらえもんだとワープ。

次に誘惑。
目的から主人公を外そうとする。キリストも仏陀も同じ。
怪しいエロい女などの誘惑。旅を止めさせようとする。
逆にエロい女が惚れてきたりする。

次に闇に落ちる。→破れと同じ。
意味がある。擬似的な死を意味する。
死であると共に子宮の意味もある。強くなって生まれ変わる。再生。キリストも同じ。

最大の敵と戦う。
それは父。世界の支配やルールそのもの。
ダースベイダー。社会のシステム。既存システム。
私が戦っているのは社会、システムを変える為だと。
それが父との戦い。象徴。
巨人の星。美味しんぼ。全て同じ。
神を倒す。王を倒す。
次の責任者。次の世界をつくる。成長の物語。
学んでいく過程でもある。
世界を知る。宇宙を知る。世界模型のように。

最後に、元に戻る。
桃太郎も同じ。
成長して大人になって帰る。
どらえもん劇場版は全てこれ。

普通の人の話。みんなこういう過程じゃないですか。
大人になるということは。そういう意味。
神話の話でありながら、みんなの話。
大きな話にまとめてるだけ。
物語というのは人生のメタファーなんだということ。
キリストがどうとか英雄がどうとかではない。
自由を掴むこと。自分の本性を知る。これが自由になるということ。

以上の論に対するアンチテーゼもある。


続きはその④へ。

辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#4

町山智浩さん
think movie storyから。その②※町山智浩さんはブログなどでの引用はOKと公言されてます。念の為。
その①の追記
ストーリーがあるものが娯楽映画
仁義なき闘いの脚本家笠原カズオさん
転がりが良すぎると観客を置いていってしまう
1転がり
2宝
3枷
4敵


5三方(さんぼう)
鏡餅の下の台
明智光秀がこれをひっくり返して謀反を決意した
一か八かやってみる瞬間
これがない映画もあるがこれがあるのが娯楽映画
ストーリーを決定する
キリスト教でいうリープ・オブ・フェイス(Leap of faith)
信仰に飛び込め
リスクに飛び込め
そういうもの。
エピファニー→その人が生まれてきた意味とか、何のためかに目覚めるみたいな意味。本質に目覚める。サルトルの実存主義はこの本質を否定している。
コーリングともいう。
ロッキーの例。俺は殺されるかもしれない。でもやってみるよ、と決めた瞬間。
戦わなかったストーリーもある。それの方が現実性があったりする。

6破れ
主人公が負ける、弱いところをみせる。
プライベートライアン。
主人公が本音を出して泣くシーン。これ。
盛り上がりの前に一回落とした方がいい。
一回負ける。三回戦みたいなパターン。
プロレスは昔は3本勝負だった。
用心棒。
一回ボッコボッコにやられる。その後の盛り上がり。
一度地獄に落とす。
7オリン
バイオリンの音の事。
すすり泣かせるシーン。そういうシーンに昔はバイオリンが流れた。エモーショナルなシーン。主人公の弱みとか観客は知っていて、主人公と一体感が生まれてる。
8山
山場。クライマックス。
どんな映画にもこれは必要。
ワールドウォーZ。これは山がなかった。訳ありでカットされた。
9タメ
笠原カズオさんの脚本映画→ガマン劇と言われた。
タメがあるといい。前半耐えて耐えて、みたいな。これに最近の観客が飽きてる為、全体に分散させてる。でも全体としてのカタルシスが無くなっている。
10お題目
テーマ。この映画は何が言いたいのか。書き手作り手が本気で言いたいこと。それがないと、安っぽい、興行映画になる。上っ面だけの忘れさられる映画。

アメリカでの脚本講座で話されたことは笠原カズオさんの骨法と同じだった。ハリウッド映画だけは、これに沿って作られている。
人類史の中で、人間が成長するパターンがこれ。どらえもんも、そう。スーパーヒーローものはだいたいこのパターン。全ての文明に通じる英雄神話は全てこれ。
スターウォーズを製作する時にルーカスは全ての英雄神話を調べた。先にやっていた人がいた。
ジョセフキャンベル。
英雄は千の顔を持つという本があるらしい。

その③に続く。