2016/06/15

自分だけでも自分を愛すること

ごめんなさい。前の記事で夏の終わりまで、ブログを休むと書いておりましたが、続けることにしました。そうですね、このブログを読んでくれてる人、僕を無条件で認めてくれる人がいるということは嬉しいです。僕はこれを書き始める直前まで一人の女の子と3時間ぐらい話をしてました。その子の辛い話の相談でした。その子もこれを読んでるので、詳しいことは当然ながら書かないですが、僕は逆に勇気をもらえた気がします。

今日の朝。
26万人のフォロワーをもたれた方に僕はフォローされた。オノ・ヨーコさんもフォロワ―の一人だ。ジョン・レノンと同じ誕生日な僕は子供の時からジョンとヨーコさんが好きでした。
可能性は低いかもしれないけれど僕のつぶやきがヨーコさんの目にとまるかもしれないと想像すると、僕はとても嬉しいのです。
なぜ、僕がその方に今朝フォローされたのか、それは、偶然の連鎖でしかありません。起きた事実だけをみれば。でも、僕だけが知っている自分のなかの心情の変化がある。僕だけが知っている守り続けてきた自分自身の信条がる。それによって傷を負うこともあった。他人を傷つけたこともあったかもしれない。でも、いいのだ。僕みたいなやつがいてもいいのだと、今は思う。

自分だけでも自分を愛すること。

2016/06/13

物語の断片②

マルチプルアウト~はじまりのはじまり

知りたいことがあったとき
僕は眠ったふりをする。
世界中の知らないこと、宇宙のこととか。
少し時間が必要だけど、お兄さんは現れる。
黒い服と黒い靴だけど、暗い場所でもわかる。
笑っていることも。

ぼくはコドクだと思います。キュウサイとかをまっています。
お兄さんはコドクですか?
でも、明日が日曜日なので今は楽しいです。
夜はボウエンキョウで星座をながめます。
今日は晴れていたから西の方角です。
ぼくの家から西のほうへは海があります。雲が大きいと金星がみえません。
金星が好きだってお兄さんは言っていました。
だから、金星がみえると楽しい気持ちになります。
今夜はみえそうです。
ぼくの髪は、前のほうが伸びてきたので少しみえにくいときがあります。
でもみえにくいほうがいいです。
学校では、ずっと目は閉じていたいです。
また髪をさわってください。

お兄さんと約束したこと、ちゃんとおぼえています。

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英語をちょっとだけ勉強してオプションを拡げたい、そういうのもありましてこのブログを少し休みます。夏の終わりぐらいまで。リアルで友人の方が何人かこのブログを読んでるかもしれませんが心配して連絡してきたりしないでね(笑)。
ちゃんと妻と娘と3匹のネコと家庭円満な生活に異常はありませんので。



2016/06/12

既存のマーケットなんてちゃぶ台返しだ

以前、記事のなかで偉そうに
『市場原理は人対人では動いていない。
モノを売るんだったら非情になるしかない』なんてことを書いたんですけどね、
ちょっと考え方が変わりました。
というのも、まだあまり世に知れていないミュージシャン(このような言い方すみません)
で『うしろの猫沢さん』という方がいらっしゃいまして。
この方のホームページをなにげなく閲覧したんです。
とても、素敵な、気をひくCDジャケットがありましたんで、思わず購入申請しました。
そのCDが今日、手元にきたんですが、それがね、とてもとても感動する品でして。
おそらくCDがちょこっと簡単に梱包されてポツンと届くんだろうなって感じで僕は予想してました。それがそれが、実際にはとても暖かいメッセージと手書きのイラストがあって。
「これ、ひとりひとり購入されたかた全員にかいてるの?」と思ったら、
それをやってる作業を想像するとね・・
ある意味で自分自身の命と人生を掛けてるんだなって、そう思いましたよ。
なんだかね、是非、既存の音楽界隈のマーケティングシステムをひっくり返して欲しいなって
エールを送りたくなった。また、先述の僕の言葉を撤回するべきかと。
一生懸命、真剣になっている人々を軽んじ
て評価してはいけませんね。
なんだか、また若者に教えてもらえました。音楽は考えるな、感じろ、と。

猫沢さんの『エロス。』という曲はいいですよ。
僕はソフトバレェと並列にしてiphoneで聴いてます♪(ソフバ古っw)
良質なエレクトロポップです。

最後に書いておきますが、男子ロック諸氏も猫沢さんぐらいサービス精神ないとダメかも・・


辺境の片隅、存在の証明、そのメモ書き#21

町山智浩さんの映画『太陽がいっぱい』について、から
町山智浩さんが映画評論に目覚めたきっかけについて、ご本人がいろんなところで語られてる。
それは、概略、以下の通りだ。
・『太陽がいっぱい』(アラン・ドロン主演)が公開された1960年当時、「サスペンス映画」として世間では受けていた。
・そのなかで、世界でただひとり「これは同性愛の映画である」と評した人がいた。それが淀川長治さんである。当時、作家の吉行淳之介と淀川さんが対談する機会があり、そこでも淀川長治さんは断言された。「この映画は同性愛を描いたものだ」と。吉行淳之介はそれを否定された。吉行だけではなく、誰もそれを信じることはなかった。
・なぜ同性愛を描いた映画だといえるのか?二つの場面にその理由がある。
①アラン・ドロンが殺害する友人の服を着て鏡の前に立つシーン
②アラン・ドロンが殺害する友人の胸元にナイフを突き立てるシーン
そのうちのナイフを突き立てるシーンについては「ナイフがペニスの象徴なのだ」と。
・淀川長治がこの世を去った後の2003年に『太陽がいっぱい』の原作者:パトリシア・ハイスミスの自伝が発表され、彼女がレズビアンであったことが明かされる。。

詳細をお知りになられたい方は是非町山智浩さんの『太陽がいっぱい』についてを調べていただけるといいかもしれません。
∞   ∞   ∞
昨年、僕の念願だった「内田樹さんに会いたい」という想いは、辺境ラジオ公開収録へ参加出来たことと、MBSスタジオのトイレでばったり御一緒になり、実現した。今年は、是非、町山智浩さんにお会いしたい。町山智浩さんの声を聴いているだけで、僕は勇気が湧く。
(あああ、これ変態みたいだw)
町山智浩さんからはホントに多くのことが学べる。たくさん。たくさん。たくさん。以前、内田樹さんがtwitter上で町山智浩さんは天才であり、一つの映画から紐解かれる話は、大滝詠一さんが一つの歌から展開されることと全く同じだと。
(すみません、これは私の記憶のなかの話。確かこんな内容でした)
先日、内田樹さんが例の舛添都知事のニュースについてツィートされてた。

歴史について考えるときに「なぜ、ある出来事が起きて、『起きてもよかった別の出来事』は起きなかったのか」を考察せよと教えたのはミッシェル・フーコーです。舛添事件の報道資源を割くことで「報道されずに済んだ醜聞」があります。そちらの方がこの国のシステムの本質的劣化を表しているのでは。

これは、僕の想像ですが(というか内田樹さんは確かどっかで同じことを言ってた気がする)二人の天才はミッシェル・フーコー哲学の実践者なのだ。
皆さんは(すみません、このブログの読者は私だけかもしれませんがw)天才になりたいと思ったことはありませんか?このろくでもない生活を自分の才能で劇的に変えてしまいたい、と。
もしくは、よく言われる言葉があります。「天才と狂気は紙一重」だと。
この言葉の意味を日常生活のなかで、具体化するとどういうことなのか。
僕たちは「何らかの判断・選択」をしなければならない事柄がよくある。
例えば、好きになった異性がいる。その相手に自分の気持ちを伝えようか、伝えないべきか。
きっと多くの人は一般論に走る。「このシチュエーションでは伝えないべきだろう。相手の気持ちはだいたい予想がつく」と。僕はここで勝負するべきなのが天才ではないかと思う。少し次元が低いかもしれませんね。しかし、「なぜ、ある出来事が起きて、『起きてもよかった別の出来事』は起きなかったのか」という考察の方程式を実践するというのは、そういうことだと僕は思う。天才の生き方って。「想像力が世界を奪う」なんて言葉が確かあった気もする。

最後にこの「メモ書き」について。
最近はなんだか説教臭くなって嫌な感じもしてます。実は。。
僕がこのメモ書きで何をやろうとしているのか、皆さんが察してる通りで、文章書きのトレーニングの意味合いはあります。でも、それ以上に、最近はね、こんなへんてこりんなブログをわざわざ読んでくれている人がもし一人でもいらっしゃるのであれば・・とおもって、一生懸命続けてます。
これからも宜しくお願いします。

2016/06/06

詩:午前3時



じつは何度かこのブログに
上げては削除し
上げては削除していた詩があります

僕は19歳の時に
世間で差別されるような
環境にいた女の子に
恋をしたことがあります
いろんなことがあって
終わりました
あの頃から僕は何も
変わっていません
それはなんだろうな

ちょっとおかしな
行動を時々する
聖書の紹介で訪ねてくる人とか
大雪の日曜日に
スーツ着て訪ねてくる
壺売りの青年とか
そういう人々も
部屋に上がってもらって
真剣に話をしたりする
わかりあえるとは言わない
奇妙かもしれない

でも僕は
孤独な人
うちのめされた人
そういう人に
一番共感する

今年の春
午前3時に
毎日僕は
うちのめされた人と
ひとりぼっちの
女の子と
話をしてました
もう終わったことだけれども
幸せであってほしいと思う

くだらないことかもしれませんが
僕にとっては春の金字塔でした




2016/06/05

果実のマーケティング

明日、タイランドの友人がロードバイク持参で来日する。
その関係で今週はブログ更新が出来ないと思われ
まったく読まれてはいないブログですが念の為の告知です(笑)

今日の大阪は雨模様で、ロードバイクに乗ることも出来ないので、そうですね、最近若者ミュージシャンと会話することが多々あったので、その辺りの記事を書こうかと。

昨日はtwitter上で若者に御迷惑をお掛けしてしまい、まったく僕はいくつになってもオトナになれないなぁと反省しました。本当に申し訳ない。というか、ワル知恵で生き抜いてきた僕のような人間はtwitterはあまりやらないほうがいいかもしれない。ただ、スキャンダラスな効果を得るという意味では、twitterは最も簡単であり、効果も大きいものだなと。逆に自身の市場を狭めてしまう可能性もある。要は「なぞなぞ」をtwitterに残して自身の市場へ引き込む、というストーリーが大事かもしれません。twitterで自身の種明かしをすると閉鎖的な村社会となる。

「ワル知恵で生き抜いてきた」とは具体的にいうと、僕が営業職の仕事上で体感した「モノを売る」もしくは「小企業が大企業に勝つ」為のマーケティング・戦術のことで。高卒でなんのトリエもなく、人見知りで社会的不適合なマイナスからのスタートなんで、ワル知恵だけはよく働くんですね。
勝つことへの異常なまでの執念が才能や技術に長けた人間や既得権者をも凌駕する。そう確信するしかね。。
・・・・・・
世紀の一戦「モハメド・アリ対アントニオ猪木」
プロレス・格闘技史上最も舞台裏が注目された試合。また、試合内容自体も「意味深で謎」な内容で終わっている。猪木のキャラクターもある。しかし、注目を引く為の「ストーリー作り」これがあった。裏方の新間寿という「プロデューサー」が仕掛ける「注目させるための演出」が大きかったということ。これは「有名」を勝ち取るという意味でも勉強になる。おうおうにして、注目を浴びたいがためにキャラクター・商品に力を注ぎがちである。大金が掛けられる大企業にはそれでは勝てない。闘いの舞台までのストーリーと演出に頭脳を働かせること。ある意味、人を引きこむストーリーがあれば、良質な商品でなくても騙されて買う人が多い。
・・・・・・
モノが売れる・売れない、大袈裟にいえば市場原理とは、人対人の関係性では動いていない。少なくとも資本主義の日本では。(中田考と内田樹両先生の本に書いてあるような共同体/物々交換と助け合いの社会であれば話は別です)人がそこに介在するとすれば「欲望」。個人・企業がモノを売りたいという意図も含めて。何が言いたいのか。売るという行為に関しては非情に徹するということ。冷徹な目で自分の立ち位置を分析する。実はこれが一番難しい。出来ることなら優秀なプロデュースできる人間に依頼した方が早かったりする。先述の演出・ストーリーも含めて。
・・・・・・
有名な話をひとつ。「ビデオデッキ・ビデオ文化(レンタル)」が80年代初頭に一挙になぜ普及したか。または、DVDなどの新たなメディアが旧メディアを更新する「とっかかり」は何か?アダルトビデオ、エロである。エロいことは人の目を無意識に引く。誤解無きようにちゃんと書いておこう。脱ぐのではない。「サブリミナル効果」として使うのである。有名なところでいえば椎名林檎だ。演出に必ずエロを入れてある。浜崎あゆみはマドンナをリスペクトしているがマドンナのマーケティングを引き継いだのは日本では林檎ちゃんだろう。ただし、椎名林檎がシンボル化されてしまった今では、同じ方法を摘要すると「ただのコピー」となる。コピーとならない為にはどうすればよいのか、キャラや演出は捨て「サブリミナル効果」という方法だけを取り入れるしかない。

・・・・・・・
男はエロをどう扱えばマーケティング活用できるのか。
まあ、スピッツとBUMPを紐解けば判りますよ。いうまでもないけれども、歌・音の内容ではない。あくまでも人寄の為のストーリー・演出のこと。長淵剛は嫌いですが、あの方の演出も参考になる。
念の為、、もう一度言っておこうと思う。僕が演出と言っているのは、ショーの演出ではないです。

2016/06/04

過激なセンチメンタリズム~LIVE撮影~

先日、観戦したLIVE「Otsuka Figft Club !」で撮影させていただきました。
躍動する演奏者を撮ることは難しい・・
下記出演者です。是非検索してみてね♪

ファイトクラブ・・良いネーミングだな。
演奏されたみなさんにエールを贈ります♪

『過激なセンチメンタリズム』


演奏者:Felix


Photographed by: Kajitsu
When: 06/2016
Where:Tokyo, Japan 
Subject: "Felix"
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Brightness -0.79
mode:A



演奏者:細貝トモフミ


Photographed by: Kajitsu
When: 06/2016
Where:Tokyo, Japan 
Subject: "Tomofumi Hosogai"
X-A1  XF55-200mmF3.5-4.5R  F13 1/3sec  ISO800 200mm
Brightness -0.29
mode:A



演奏者:Loafer


Photographed by: Kajitsu
When: 06/2016
Where:Tokyo, Japan 
Subject: "Loafer"
X-A1  XF55-200mmF3.5-4.5R  F4.2 1/45sec  ISO800 105mm
Brightness 2.21
mode:A



演奏者:Corriedale


Photographed by: Kajitsu
When: 06/2016
Where:Tokyo, Japan 
Subject: "Corriedale"
X-A1  XF55-200mmF3.5-4.5R  F14 1/3sec  ISO800 141mm
Brightness 1.05
mode:S


※勝手に写真上げてます。まずい方々は苦情くださいっ


追記
この記事を書いた直後にモハメド・アリさんがお亡くなりになられたニュースを知りました。僕が小学校一年生の時に世紀の一戦「モハメド・アリVSアントニオ猪木」があり、僕にとってはあの一戦こそが『過激なセンチメンタリズム』という感性が自分の中で育っていくことの始まりだったような気がします。アリさん、ありがとうございました。

2016/06/02

宗教的儀式のように聴く音楽 その2

辺境ラジオでおなじみの名越康文先生が言ってた。山の手線に乗ると自分の中で非常警告がものすごい音で鳴り出す、それぐらい病んでいる、多勢の人が病んでいる、と。(名越先生は精神科医)
今朝、久しぶりに山の手線に乗った。大阪では味わえない空気。これはなんだろうな。
無名の若者ミュージシャンの歌を多くチェックする中で気付いたことがある。新しい物語の創出を願っている、そんな感じのことだ。
・・・・・
先の記事でふれた「NO」の物語は今の日本ではダメなんだということ。渋谷陽一さんが語る。なぜ自公政権の支持率が下がらないのか、それは野党やらの「NO」の物語に人々が歓心がわかないからだと。10万人の若者たちのデモ。あれは「立憲主義」という「YES」の物語なんだと。
話が戻る。若者ミュージシャンをチェックする中で気付いたこと。よく歌われる「元気を出そう」という歌詞。これは「YES」の物語なようで、じつは「NO」の物語だ。なぜならば、聴き手のロクでもない過去を肯定してしまうから。(もしも不愉快な気持ちになられた方がいらっしゃいましたらごめんなさい。これは自分自身への戒めの意味もあって書いてますので。。)
・・・・・
1ヶ月ほど前、エレファントカシマシの「パワーインザワールド」という歌を5時間リピートで聴き続けた。自分の中の血をすべて変えてしまいたい気分だったので。これってホントに宗教儀式的な聴き方だな(笑)。宮本浩次さんは元気になれとは歌っていなかった。なんだろうな。宮本さん御自身を戦いに奮い立たせるために叫んでるみたいな歌でしたよ。

2016/06/01

宗教的儀式のように聴く音楽 その1

先日、初めてヒューマンビートボックスなるもののライブを観た。とても良かった。やはり、ある一定のレベルに達する洗練された技術・テクニックというのは人を熱狂させる為には最重要な要素なのかもしれない。当然のことなのかな。僕はどちらかといえばロックバンドは演る人間の初期衝動・エモーショナルなものに目がいくので。そのヒューマンビートボックスが最後に演った曲が僕には、とてもとても感動的で、その曲はjust the two of us。曲紹介した間際に、この曲が大好きだという金髪のお兄さんが飛び入りで歌い出すハプニングが。その若者はホントに情熱が溢れんばかりな歌で・・じっと観ていた僕は泣いてしまった(笑)。その若者に魅力を感じてしまった僕は、後日、この若者がボーカルを務めるバンドを検索してオリジナル曲を聴いてみた。ちょっと大変失礼な物言いで申し訳ないのだけれども僕にはグッとくるものがなく。(ちょっと念の為に言いますが、この若者のバンドで久しぶりに僕は踊りましたよ)やはり、just the two of usの楽曲がよかったのだろうかと。。
・・・・・・・
僕は気に入った曲がみつかると、何度も何度も何度も相当な回数で、その曲だけをリピートで聴く。この聴き方は精神的にはよくないらしい。長い時は5時間ぐらい聴き続けたりする。それはまるで宗教的儀式のように。
先日もこのブログでちょっと触れたけれど、最近僕はコリデールという無名なシンガーの曲をリピートで聴くことがある。直感を信じるタチな僕だけれども、ナゼこの歌がいいのだろうかと客観的な視点で聴いてみたいのと、こういった名も無き今の若いミュージシャンというのは、一体、どういったもんなのかと興味もあり、結構いろんなシンガーさんやらバンドやらの歌をチェックしてみた。なるほど。。独断な物言いだけれども先述した通りだと思う。楽曲の差だ。少なくともコリデールの楽曲は僕が思わず拾ってしまう「欠片」みたいなものがちゃんと含まれている。(もちろん、これはセンスのないしがないサラリーマンの独断)
サウンドクオリティは多額の費用がかけられる産業音楽とは比較にならない。当たり前だ。しかし、聴く側は、もうそろそろAKBとかエグザイルとかシステム側の差し入れみたいな歌をわざわざ食べなくてもいいのではないだろうか。
(ファンの方々、これは侮辱ではありません。社会学的な意味合いの話です。お米は太る原因だ、なんていうトンデモ話と同じで、スルーして下さいね)
・・・・・・・
明日、僕は村上春樹さんのイラスト展示会とコリデールのライブを観に行く。入口はあるのに出口のない村上春樹さんの初期作品。コリデールも同じだ。出口がない歌(僕は素人なので、説明は難しい。どこがどうとかではない。聴くとわかりますよ(笑))しかし、今の僕は、それが居心地よかったりする。